工場のこと

にじゆらは今年で10年目を迎えています。
感謝の気持ちと共に、これまでのこと、現場、そして、これからのことなどを数回にわたり、
お伝えするページです。
まずは、にじゆらが生まれる場所のお話です。

にじゆらの母体である染工場ナカニは、大阪府堺市の晒や織り、染の工場が
いくつもある地域にあります。
その地域は、毛穴町(けなちょう)と呼ばれる町で、昭和41年に創立しました。


わたしたちは、問屋や商社から注文を受け、手ぬぐいや浴衣を染める工場です。
主に祭りや企業ノベルティ、メーカーの製品を染めていました。

株式会社ナカニとしての創立は昭和41年ですが、その前身となる注染工場は以前からあり、
手ぬぐいの生産量としては、この頃がピークだったと言われています。
(注染とは、幾重にも重ね、防染された晒生地に一気に染料を注ぎ込み、手作業ながら
1度に約50枚染める技法です。)※1
今となっては、スクリーンプリントにロール捺染という注染以外の事業も行っていますが、
当時は注染のみで、今の何十倍もの生産量がありました。
この頃といえば、かなりタオルが普及してきた時代ですが、まだまだ手ぬぐいは人々にとって
身近な存在であったことが分かります。

その後、創立時より生産数は減っていたものの、全国(主に東京・浜松・大阪)にある
注染工場の中でも大阪が約4割をしめ、その中でもナカニは特に、生産数の多い工場でした。
この割合は今でも変わりありません。

染屋の業界には、こんな言いまわしがあります。「紺屋の明後日」。
昔は、ほとんどが手ぬぐいを天日干ししていたため、天候により納期がずれることは当たり前でした。
「今日、あがる」と言っても2日ぐらい遅れていたことから、「染屋の納期は、当てにならない。」となり、
生まれたことわざです。
そんな中、ナカニでは“お客様と約束した納期を守り、生産数も絶対に落とさない。”
その思いで皆が、がむしゃらに取り組んでいました。
染める加工のみの仕事では、日々、量をこなして積み上げていかないと売上はありません。
すなわち、工場を続けていくことができません。


職人の中には夜中に出勤してくる人もいました。 
注染は、基本的に分業で仕事を進めていきます。
生地を巻く/板場/壷人/川・伊達とそれぞれに職人の役割があり、
次々と手ぬぐいがバトンのように渡され、仕上がっていきます。

その中でも板場の職人は、染める前において、重要なポジション。
その持ち場の仕事が終わっていないと、染めはできません。
早朝7時に仕事を始める壷人(つぼんど)のために、夜中1時頃に出社し、
晒生地に糊を置く作業を繰り返し、繰り返しおこなっていたそうです。

昔懐かしいエピソードとして、その職人は、朝と昼用のお弁当を2つ持ってきていました。
来る日も来る日も中身は全く同じ。卵焼き2つと白いご飯です。
毎日、同じお弁当で1日400反(手ぬぐい約5,000枚)※2もの仕事をこなしていたのです。
(現在の生産数は、デザインが複雑で色数も多いため、工場全体で1日300反(手ぬぐい約4,000枚)です。
昔はシンプルなデザインで単色のものが多いという違いはありますが、それだけ手ぬぐい自体の
需要にも違いがあることがわかります。)

板場という持ち場は、壷人と違ってデザインは変わるものの、
ただ一心に、晒生地を重ねながら防染糊を置く作業を繰り返すという単調なものです。
シンプルな作業だからこそ難しく、根気がないと続きません。
そのお弁当の話を聞くと、とても実直に、板場に向き合っていた職人だったのでは?と、
その当時を思い、ナカニの職人を誇りに思います。



さらに、もうひとつのエピソードとして、8,000反(手ぬぐい約10万枚)もの発注を仕上げるために
2人の熟練職人が、競技さながら競い合って糊置きをし、数をこなしていました。
それを染める壷人の職人は1人だったので、回し車の中で走り続けるハムスターみたいに常に追われ、
気がつけば1日が終わっていました。

夜中から仕事をはじめないと一向に終わらない毎日。
他の職人も同じく、日々追われていました。午前中の仕事はウォーミングアップのようなもので、
午後からが1日のスタートというぐらいの忙しさが繁忙期にはありました。
そうなると終了する時間は夜の8時すぎです。
夕方に、腹ごしらえで出前をとって、みんなで食べるうどんは体に染み渡り、とても美味しかったようです。
また、狭い現場の中でみんなが走りまわり、納期というゴールに向かって手ぬぐいを渡していく様は、
まるで運動会のリレーのようだったと、その頃現場に入っていた2代目※3 は懐かしみます。


それだけの生産をこなしていた時期、にじゆらのようなデザインや染めはありません。
シンプルな柄に多くても数色を染める程度でした。それもほとんどがぼかして染める技法ではなく、
差し分けという方法できっちりと色ごとに分けて染めていました。
同系色のボカシはあっても、違う色同士をにじませて、グラデーションのようにする技法はあまり
使っていませんでした。
この頃の職人にとって、“ぼかす”“にじむ”ということは、きれいな仕上がりではなかったのです。
むしろ、タブーとさえ思っていた人もいました。

※昔はこのような単色の染が多かった。


そんな慌ただしい毎日も、時代を経てプリントや海外生産のプリント手ぬぐいが主流となっていきます。
注染業界としては、浴衣の生産がガクンと落ち、それに続くかのようにゆるやかに
手ぬぐいの生産も落ちていくのです。
技術は高く、日本にしかない技法でありながら、どんどん衰退をはじめていく状況が続いていました。
この頃から2代目は、注染を続けること・職人を残すことについて考えはじめていきます。

およそ、12,3年ぐらい前でした。
にじゆら誕生の元となる時期です。
ここから先、様々な出会いや出来事があり、産声をあげるときへと近づいていきます。
このお話は、また次回に。

次回は、にじゆら、そしてRONDが生まれた背景をお伝えします。
【注釈】
※1 注染の工程については、オフィシャルサイト手ぬぐいのことをご覧ください。
※2 反・・・手ぬぐいを数えるときの表現。1反は手ぬぐい約13枚分(12M)の長さの生地のこと
※3 2代目・・・現在の代表取締役 中尾雄二





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